田道間守の伝説
垂仁天皇は大和国纏向宮で国を治めていましたが、ある時「私の為に誰か常世国へ不老不死の霊菓、非時香菓(ときじのかぐのみ)をさがしに行ってくれる者はいないか」と尋ねました。 この大役を田道間守が命を受け、その後十年後に無事大命を果たし帰国してきましたが、すでに垂仁天皇はその前年なくなっており、「陛下の生前に持ち帰ることができず、私の罪は正に死にあたいする。先帝のあとをしたってお供しましょう」と言って陵の前に穴を掘って入り、天を仰いで忠誠を誓い自ら殉じてしまいました。
田道間守の持ち帰った非時香菓は、その後、田道間花といわれ省略されて「たちばな」となり、橘と書くようになりました。 その後橘が伝来した土地として、橘を「キツ」と読み現在の「木津」に至っています。2009 年 9 月 27 日
カテゴリー:京丹後の伝説・民話
丹池伝説
昔、大阪の鴻池(こうのいけ)に美しい娘がおりましたが、嫁に行かぬと両親を困らせていました。 ある日、丹後に稼ぎたいと言い出したので、娘を立派なかごに乗せてお供をつけ、はるばる丹後まで送らせました。 桜尾峠でかごを降ろして一休みしていると、不思議なことに娘は蛇になり「かつた池」と呼ばれる池に入って再び上がって来ませんでした。 以後、人々は「蛇の池」と恐れて近づきませんでした。
池の主となった大蛇は時々里に出て農作物を荒らし、村人を悩ませました。 ある時、有田集落(網野町加茂川)の三五郎という剛の者が、氏神加茂神社に祈願してこれを退治することになりました。 三五郎は裸になると剣をくわえ、池深くに潜って大蛇を探しましたが池の底にヘダラ(ヒサカキ)の大株が沈んでいるだけでした。 もしや大蛇の化身ではと斬りつけると、池の水が真っ赤に染まりました。 その後、大蛇はあらわれなくなりましたが、池の水がいつまでも赤かったので「あか池」と呼ばれるようになりました。 後にこのあか池が丹波の国名の起源となったと伝えられ、丹波を二分して北の一端を丹後と名付けたそうです。
2009 年 9 月 27 日
カテゴリー:京丹後の伝説・民話
浦嶋伝説
昔、銚子山古墳の地続きに日下部氏の屋敷がありました。 日下部曽却善次夫婦には子どもがなく、子宝に恵まれたいと百日祈願をしていました。 満願の夜、夫婦は不思議に同じ夢を見ました。 神から「ふたりの願いを聞き届けよう。明朝、福島へ来い」とのお告げです。 翌朝、出かけると赤子が置かれており、夫婦は「嶋子」と名付け大切に育てました。
釣り好きの若者に成長した嶋子は、澄の江での漁の時は釣った魚を一旦磯の「釣溜(つんだめ)」にビクのまま浸けておいたといいます。 ある日、嶋子は福島で大変美しい娘に出会いました。 乙姫様でした。 ふたりは夫婦の約束をし、小舟で竜宮城へ行きました。 手厚いもてなしを受け3年の月日が経ちました。 嶋子は故郷が恋しくなり、帰ることになりました。 乙姫様が「お別れに手箱を差し上げます。 再びお出でくださるお気持ちがあるなら、決して中をお開けなさいますな」と美しい玉くしげ(玉手箱)を渡しました。 嶋子は懐かしい万畳浜へ帰って来ました。 ところが屋敷に着いてみると雑草が茂って一面の荒野原に…。 竜宮城での1年は、人間界の何十年にもなっていたのです。 嶋子は悲しみ、途方にくれました。 その時、玉くしげのことを思い出し、これで数百年の昔に戻れるのではと箱の蓋を開けました。 すると中から白い煙りが立ち上り、嶋子はしわだらけのお爺さんに。 驚いた嶋子は思わず自分の頬のしわをちぎって榎に投げつけました。
その後、嶋子がどうなったかはわかりません。 ただ、しわを投げつけたという一本榎は「しわ榎」といわれ、今も日本海を渡って来る浜風に枝葉をゆるがせて立っています。
網野町は「丹後国風土記(ふどき)」に伝えられる浦島太郎伝説の地でもあります。 浦島太郎は、後世につたえられた名前で、風土記では水江浦嶋子(みずのえのうらしまのこ)となっており、この嶋子を祀る神社が浅茂川の海岸に鎮座する嶋児神社です。
浅茂川地区には随所に浦島太郎ゆかりの地があることから、「浦嶋太鼓」と名付けられ、水無月祭で海上安全と大漁を祈願して、太鼓をたたいたといわれています。 浦嶋太鼓は、現在も地区の有志により受け継がれています。
嶋児神社から右手に築かれた防波堤の先端の岩場に自然の岩で囲まれた潮溜(しおだま)りがあり、浦島太郎(浦嶋子)が釣った魚をここに放しておいたと伝えられています。
銚子山古墳の前方部付近にある榎の大木。 竜宮から帰った浦島太郎(浦嶋子)が、ここで玉くしげ(玉手箱)を開けて顔じゅうしわだらけになり、悲しみのあまりしわをちぎって投げつけると、樹皮がしわで凹凸になったと伝えられています。2009 年 9 月 27 日
カテゴリー:京丹後の伝説・民話
引原のごんすけ
木津から網野へ出る道に引原峠があり、昔は大木が茂って昼でも暗い山道でした。 ここに人を化かす古狸がいて「引原ごんすけ」と呼ばれておりました。 お祭りなどの帰りに持っていたごちそうを食い荒らされたり、風呂を浴びていたらそれは小川の水たまりだったなど、そんな事件が村人たちの間でよく聞かれたものでした。 そこで新庄や今井などの村人が狸の悪さを封じるため、石地蔵を建立して僧の読経をいただいたところ、ごんすけは姿を消しました。
その後、隣村の塩江の五石の山へ移ったごんすけは、嵐の夜に浜辺のあちらこちらで火を燃やし、沖を通る舟をおびき寄せては難破させ、食糧や積荷を奪ったりしました。 地元の人たちは海上がよく見渡せる峠に大きな石地蔵を建立し、偉いお坊さんを招いて狸封じのお経をいただきました。 その法力によってごんすけはそこにもいられず、但馬の山へと退散してそちらにに棲みつきました。
そんなある日、木こりがたき火をしていると、見知らぬお婆さんがやって来て「ちょいとあたらせてくんさらんか」と言いました。 よく見るとお婆さんの後ろに尾が見えます。 木こりは「さてはこいつだな、近頃うわさの古狸めは」とそこにあった燃えさしの丸太をつかんで打ちたたき、とうとうごんすけを退治してしまいました。 これが「引原ごんすけ」の最期でした。2009 年 9 月 27 日
カテゴリー:京丹後の伝説・民話
琴引浜物語
歴史的に古くから鳴き砂の浜として知られ、戦国時代の武将で丹後田辺城主であった細川幽斎や、その息子忠興の妻細川ガラシャが琴引浜や太鼓浜を和歌に詠んでいます。 また、江戸時代の地誌として有名な木内石亭著の『雲根誌』にも書かれています。 この他にも丹後の江戸時代の地誌『丹哥府誌』などにも記録があり、このように文献上にその名が記載されているのは大変珍しいことです。 琴引浜の地名は、「琴弾浜」や「琴曳浜」などとも書かれ、鳴き砂の音を琴の音にたとえて聞いたところから名付けられました。
2009 年 9 月 27 日
カテゴリー:京丹後の伝説・民話
七竜へび
塩江村と磯村の間に大きな岩山の峠道がありました。 峠近くに高天と呼ばれる山があり、頂上あたりの大きな穴に「七竜へび」が山の主として棲んでいたといいます。 ある日、旅人が一休みをしてたばこをすっていると、白い小さな蛇がするすると来て、食べ物でも欲しそうに人なつこい様子で首をかしげました。 いたずら心を起した旅人は、煙管の頭でこつんと蛇の頭をたたきました。 あわてて逃げ去ると思っていると、驚くことに蛇はたちまち杖ほどの大きさになり、見る間に棒のようにそして丸太のようになり、ついに両手で抱えるほどの大蛇となりました。 旅人の顔をにらんでいたかと思うと、あっという間に飲み込んでしまいました。 遠くからこの様子を見た人が驚いて村人に知らせたので、この話は村中に広まりました。 村人たちは七竜の蛇を恐れあがめ、霊験あらたかな神として祀り、願をかける時には鶏卵を神前に供える習わしになっています。2009 年 9 月 27 日
カテゴリー:京丹後の伝説・民話
五色浜の不思議
海中公園地区に指定されている五色浜は、長い年月をかけて波の浸食を受けて形づくられた奇岩が、いたるところに点在している岩場です。 波打ちぎわには色とりどりの玉石が美しく輝いていることから、こう呼ばれるようになったといいます。
また、五色浜にはこういう昔話も伝えられています。
五色浜に赤ん坊を抱いた若い女の死体が流れ着きました。 驚いた事に赤ん坊は生きていて、村人が乳をやろうとしても飲まずに泣くばかり。 しかし、なにげなくそのあたりの小石を握らせると泣きやんだのでした。 その後、赤ん坊は母親の後を追うように短い命を終え、村人はこの哀れな親子のために石地蔵を安置して葬りました。 その後、五色浜の小石を持ち帰ると激しい腹痛が起こり、小石を元のところに返すと治ったといいます。2009 年 9 月 27 日
カテゴリー:京丹後の伝説・民話










