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永浜宇平の生涯(丹後町・京丹後市丹後古代の里資料館)

永浜宇平は、三重村(現在の京丹後市大宮町三重)出身の郷土史家です。

宇平は、その生涯の多くを郡町村史の編纂に費やしました。

今年は宇平の生誕130周年、来年は没後70周年にあたります。

これを記念し、京丹後市立丹後古代の里資料館では、今年と来年の2年にわたり、宇平の生涯を取り上げた特別展示を3期に分けて開催します。

今回は宇平の思想や研究方法を形成した『三重郷士志』の発刊に至る前半生を取り上げます。

また、9月26日(日)には、丹後市民局で『第1回文化財セミナー「永浜宇平を語る」』が開催されます。

是非、足をお運び下さい。

<永浜宇平特別展示>

■開催日時 : 開催中~10月17日(日) 9:30~16:00(毎週火曜休館)

■開催場所 : 京丹後市立丹後古代の里資料館(丹後町宮)、地図(PC携帯

■入館料 : 大人300円、子供150円(団体割引有り、文化財セミナー・展示解説日は無料)

■展示解説 : 10月17日(日) 13:30~

<文化財セミナー>

■開催日時 : 9月26日(日) 14:00~16:00

■開催場所 : 京丹後市丹後市民局2階(丹後町間人)、地図(PC携帯

■内容 : 講座「永浜宇平の生涯」、「父永浜宇平の思い出」

2010 年 9 月 16 日

カテゴリー:丹後町 大宮町 歴史スポット 資料館等

浦島伝説の地を訪ねて

丹後風土記』には丹後には浦島伝説が伝わっています。『丹後風土記』によると、亀姫と結婚した浦島は、玉手箱を開けておじいちゃんになってしまったことを嘆き憤り、顔のしわを木に投げつけたといわれている木があります。

それが『しわ榎』と呼ばれている榎の木です。浦島の生家ともいわれており、ささやかな碑が建てられています。

実はこのしわ榎、2代目だそうで、初代は長年の風雨にされ枯れたのこと。それを地元の樹木医や小学生たちによって植樹され、現在に至っています。

アクセスは少しわかりにくいです。国道178号線を網野から丹後方面に向かう途中、道ばたに看板があります。

少し細い道路ですが、入っていくと『本覚寺』というお寺があります。

そのお寺の脇を抜けていくと、お寺のお墓が続いています。僕が訪れたのは薄暮だったので、少し怖かったです(^^;

やがて進むと、丘の上に出ます。

右手には銚子山古墳へいく細道が、左手に見える大きな木が『しわ榎』です。

アクセス (地図が表示されます)

KTR網野駅より、丹海バス『弥栄病院前』行きに乗り『網野』で下車 徒歩約15分

2010 年 5 月 19 日

カテゴリー:歴史情報

古代丹後王国

古墳時代になると、丹後半島には数多くの古墳がつくられるようになる。中でも、4世紀末ごろ築かれたと推定される日本海側最大の 2つの前方後円墳、網野銚子山古墳(網野町)と神明山古墳(丹後町)は、相当大きな勢力をもっていた一群が当時この地方に存在し ていたことを証明しているし、蛭子山古墳・作山古墳が所在する加悦町には、総数644もの古墳がひしめいている(加悦町教育委員会)。丹後はまさに古墳の宝庫と言ってよく、丹後半島全体の古墳の数は約6000基である。その上位3つは、・網野町の銚子山古墳(全長198mの前方後円墳)-日本海沿岸部で最大の古墳・丹後町の神明山古墳(全長190mの前方後円墳)-丹後町古代の里資料館の側・加悦町の蛭子山古墳(全長145mの前方後円墳)-加悦町古墳公園内であるが、他にも著名な古墳として黒部銚子山など大型の前方後円墳がある。丹後の遺跡の多くが、竹野川に沿っている。この川は、1927年の大地震を起こした郷村断層に沿って流れ、大宮町と峰山町の間で断層を離れて丹後町へ向かう。

弥栄町と峰山町との境にある太田南古墳群の一つである「5号墳」からは、「青龍三年銘方格規矩四神鏡」が出土している。青龍三年は魏の年号で、卑弥呼が魏に使いを送った景初三年(238)の三年前にあたる。この年号の鏡は、あと大阪府高槻市の安満宮山古墳から1面が出土しているだけで、年代的に、卑弥呼の使いが魏から貰ってきた銅鏡100枚の内の1枚ではないかと騒がれた。今年(2002)6月になって、東京国立博物館の鑑定により、個人蔵の鏡に同年号のあることが確認され、全国で青龍三年銘の鏡は3面となった。

鉄とガラス。この2つの出土物は、丹後地域の古代遺跡を語るとき、今や不可欠の要素である。1990年代以降の発掘調査の結果から、丹後地域は弥生中期後葉から後期(前1世紀~後2世紀)にかけて、日本列島のなかでもこれら大陸の先進素材を北九州と並んで、最も早く、最も多く集積した地域であることが明らかになった。弥生時代に製鉄が行われていたかどうかについては議論の分かれる所であるが、弥生時代を通じて行われた「鉄」の生産は古墳時代になっても続けられている。

奈良時代に隆盛を見た、最古の製鉄コンビナート遺跡である弥栄町の遠所遺跡(5世紀後半~6世紀後半と8世紀後半の一大製鉄遺跡が出土した。)。最古の玉造り工房跡である同じく弥栄町の奈具岡遺跡や、久美浜町の湯舟坂2号墳から出土した、明らかに権力者が所有していたと考えられる黄金の環頭大刀(重要文化財。6世紀後半~7世紀前半)など、古代丹後地方が大きな勢力をもっていたことを物語る遺物が数多く発見されている。

これらの事実から、最近いわゆる「古代丹後王国」の存在についての議論が盛んである。大陸や半島、北九州や他の日本海地域との交流などを窺わせる豊富な副葬品や、鉄とガラスの他地域に先駆けての先進性などを考えると確かに「王国」の存在を窺わせるに足る十分な条件を備えているように思える、しかし、私がその存在を強く予感するのは「墓制」の違いである。日本海側に、「四隅突出型墳墓」と言われる特殊な形をした墳墓が多いのは、歴史に詳しい方々なら既にご存知だろうと思う。主に日本海側に限って、広島県、鳥取県、京都府、福井県、石川県、そして富山・新潟県にまで分布する、四角形に盛り土した墳墓の四隅だけが長く伸びて、突出している墳墓の事である。この形式の墳墓がなぜ日本海側だけに存在しているのかについてはまた別の議論があるが、問題はこの形式が丹後地方には全く見られない事である。紀元前後、墳丘斜面を石で飾った丹後特有の方形貼石墓が出現するのだ。他の日本海側と同じく、渡来系の人々が日本海側に多く住み着いたのは容易に想像できるが、この丹後地方に上陸した人々は、四隅突出型墳墓を築く習慣を持たない集団だったと考えられる。そして「鉄やガラス」の製造技術に長けた集団だったのではないだろうか。門外不出のこれらの技術で製造した鉄製品、ガラス製品を主な交易品として、広く日本海側や畿内地方にその覇を広げていったと考えられる。

2008 年 7 月 13 日

カテゴリー:史跡 歴史情報

神明山古墳

神明山古墳  古墳時代前期後半(4世紀後半)の前方後円墳で墳丘長190メートル。丹後半島を貫く竹野川の河口付近に位置する、網野銚子山古墳に次いで日本海側最大級の丹後三代古墳です。葺き石と丹後型円筒埴輪列をもつ三段築成。丹後一帯を支配した豪族の墓と推測されています京都府京丹後市にある前方後円墳。出土品は、近隣にある「古代の里資料館」に展示されている。かつて古墳の北西にあった潟湖・竹野湖のほとりにあり、砂丘で海と隔たっていることが指摘されていました。船と船を漕ぐ人物の埴輪が出土しており、古代の海岸線と平行に築造されていて、葺石を貼っているから海上から眺めると白色に輝いてよく目立ち、港の位置を示す標識にもなっていました。同様に4世紀の後半以降、港との関係で大規模な前方後円墳が現れ、上総、尾張、丹後、伯耆などでは、その地域最大の古墳も港との関係で出現したといわれています。このようなことから、丹後王国(丹後政権)論が提出されています。 神明山古墳へアクセスする近道が、竹野神社の脇から続いている。丘陵の縁に作られた階段を登り、進路表示に従って民家の間を抜けてゆくと、竹野神社から250mほどで史跡明神山の前方部に着く。後円頂部は殆ど平坦で、その直径は約40歩ほどある。明治26年頃、一度上部を開墾して桑畑にしようとした際、封土が削り取られたとのことだ。その中央に、史跡を示す碑が建っている。

2008 年 7 月 13 日

カテゴリー:丹後町 史跡