京丹後の伝説・民話
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白鳥伝説
垂仁天皇の皇子である誉津別皇子(ほむつわけのみこ)は、なぜか成長しても言葉が話せませんでした。 天皇は残念に思い、とても可愛がっていました。 ある日、大きな白鳥が鳴きながら群れをなして飛んで行きました。 これを見た皇子は初めて何か言いました。 それは「あれは何という鳥か」と言われたように聞こえ、天皇は驚き、大変喜びました。 そこで、天湯河板挙(あまのゆかわたな)という者にこの白鳥を捕まえる役を命じられました。 天湯河板挙は白鳥を追って但馬から松原村(網野町)に来て水之江に綱を張り、日子生命(網野神社の祭神のうち一柱)の御神霊にお祈りし、とうとう白鳥を捕えて天皇に献上しました。 皇子は白鳥を友達のようにして遊び、ついに話すことができるようになりました。 天皇は大喜びされ、天湯河板挙に厚く賞を与え、鳥取造(とっとりのみやつこ) という姓を賜りました。「網野神社明細帳」に、白鳥を捕らえようと網を張った地を以後「網野」といい、白鳥を捕えた地を「鳥取(弥栄町鳥取)」というようになったと記されています。
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静御前
磯の善次の娘として生まれた静は6歳で父を亡くし、思い出多い故郷に別れを告げ、母と京都に上りました。 巧みな舞と美しさで静は指折りの白拍子に成長し、寿永元年(1182年)7月、後白河上皇が京の神泉苑で雨乞いの神事を行った時、召されて舞った直後に大雨となり「日本一」のお誉めにあずかりました。また堺の住吉神社の舞会で平家追討に来ていた源義経に見初められて側室に。 静18歳、義経27歳でした。 義経は平家滅亡後、兄頼朝と不仲になり静を連れて吉野山に逃げましたが、途中雪の中で別れ別れとなり、身重の静は捕らわれて鎌倉に送られました。 文治2年(1186年)4月8日、鶴岡八幡宮で頼朝をはじめ並みいる武士たちの前であざやかに舞ったのは有名です。
『吉野山峰の白雪ふみわけて 入りにし人の跡ぞ恋しき しづやしづ賤のをだまき くり返し 昔を今になすよしもがな』 と義経を慕って歌ったのが頼朝の怒りにふれ、幽閉されました。 静は7月に男児を生みましたが子は由比ヶ浜に棄てられました。 後に許され、禅尼となった母と懐かしい故郷の磯に帰った静は、生家跡に小さな庵をつくり、義経の無事と愛児の冥福を祈りました。 20余歳の秋の暮れ、静は鳴き弱った虫が消えるように夫と愛児の後を追いました。

悲劇の英雄、源義経が愛した静御前を祀る神社で磯地区のはずれにあります。 かって義経が磯の惣太という船持ちの豪族にあてた手紙が残っていたという記録もあります。 この手紙や多くの遺品は、天明(てんめい)2年(1782年)の大火で神社とともに全て焼失してしまいました。 現在の社(やしろ)は、元のところから西へ200m離れた位置に、静御前の木像とともに祀られています。
静御前を訪ねて源義経(みなもとよしつね)が磯にやってきたとき、船を着けた所が入艘の浜だという伝説が残り、500m沖合の海上に点々と浮かぶ黒岩・赤岩・日照岩(ひでりいわ)などが、凪の日は浮島のように、荒天の時には波を切って泳ぐ水鳥のように見え、まちの景勝地として知られています。
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田道間守の伝説
垂仁天皇は大和国纏向宮で国を治めていましたが、ある時「私の為に誰か常世国へ不老不死の霊菓、非時香菓(ときじのかぐのみ)をさがしに行ってくれる者はいないか」と尋ねました。 この大役を田道間守が命を受け、その後十年後に無事大命を果たし帰国してきましたが、すでに垂仁天皇はその前年なくなっており、「陛下の生前に持ち帰ることができず、私の罪は正に死にあたいする。先帝のあとをしたってお供しましょう」と言って陵の前に穴を掘って入り、天を仰いで忠誠を誓い自ら殉じてしまいました。田道間守の持ち帰った非時香菓は、その後、田道間花といわれ省略されて「たちばな」となり、橘と書くようになりました。 その後橘が伝来した土地として、橘を「キツ」と読み現在の「木津」に至っています。
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丹池伝説
昔、大阪の鴻池(こうのいけ)に美しい娘がおりましたが、嫁に行かぬと両親を困らせていました。 ある日、丹後に稼ぎたいと言い出したので、娘を立派なかごに乗せてお供をつけ、はるばる丹後まで送らせました。 桜尾峠でかごを降ろして一休みしていると、不思議なことに娘は蛇になり「かつた池」と呼ばれる池に入って再び上がって来ませんでした。 以後、人々は「蛇の池」と恐れて近づきませんでした。池の主となった大蛇は時々里に出て農作物を荒らし、村人を悩ませました。 ある時、有田集落(網野町加茂川)の三五郎という剛の者が、氏神加茂神社に祈願してこれを退治することになりました。 三五郎は裸になると剣をくわえ、池深くに潜って大蛇を探しましたが池の底にヘダラ(ヒサカキ)の大株が沈んでいるだけでした。 もしや大蛇の化身ではと斬りつけると、池の水が真っ赤に染まりました。 その後、大蛇はあらわれなくなりましたが、池の水がいつまでも赤かったので「あか池」と呼ばれるようになりました。 後にこのあか池が丹波の国名の起源となったと伝えられ、丹波を二分して北の一端を丹後と名付けたそうです。

俵野(たわらの)地内の西方、桜尾(さくらお)峠の北麓にあり、三面を山に囲まれた広さ約2haの池。 この池は、背面の山地と峠の谷間から流れてきた水が砂丘によって堰き止められてできたものです。 昔、難波の長者鴻池(こうのいけ)の娘が、この池に身を投じて大蛇になり、毎日人を困らせるので退治されたが、その時、水が赤くなったので「丹池(あかいけ)」といわれたという伝説も残っています。バス釣りもできますよ。










