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京丹後の歴史を訪ねて①『細川ガラシャ』(弥栄町味土野)

 細川ガラシャは、明智光秀の三女で、細川忠興の正室になった女性です。  キリスト教弾圧の厳しかった時代に、キリスト教の教えに傾倒し、洗礼を受けます。それがガラシャという名前です。  今回は、その細川ガラシャにゆかりのある地を訪ねます。  KTRの峰山駅から、旅を始めます。移動には自動車(タクシー)を使われるのがいいでしょう。  峰山は、古くは一色氏によって治められ、戦国時代に織田家配下の細川氏によって平定されました。  江戸時代初期に丹後国・峰山藩として京極氏によって治められるようになりました。以降、明治4年(1871 年)の廃藩置県に至るまで、1万3000石の大名として2代にわたり若年寄を輩出した名家の一つとして栄えました。  峰山城は現在では存在せず、城跡のみが残っています。  峰山町には、金刀比羅神社があります。金刀比羅神社は、四国の金比羅宮に信仰の篤かった京極氏によって建てられました。  春夏秋には御輿や山車が繰り出すお祭りが行われています。  また、毎月第三日曜日には『こんぴら手作り市』が開催されています。  境内には、狛犬ならぬ『狛猫』がいます。少し愛嬌のある顔をしています。
 国道482号線を丹後町方面へ北に向かいます。  しばらく進むと、スイス村への誘導路があります。それに従いしばらく進んで下さい。  府道654号線→75号線と山の中を進んでいきます。  野間集落まで来ると、分岐があるので『味土野』と書かれている方へ進みます。 (写真の交差点を右へ進みます。)
 更に進むと、須川集落の手前に橋があります(黄色いのぼりが立っています)ので、左に曲がって渡って下さい。
 須川の集落を抜けるとの山道が続きます。  途中、道が分岐します。直進方向(狭い方の道)へ進んで下さい。  だんだんと秘境の雰囲気が漂ってきます。  離合困難なので、譲り合って注意して進んで下さい。
 味土野の集落を抜けた外れに、細川ガラシャの碑がひっそりと建っています。  味土野の地は、山に囲まれた斜面に張り付くように民家が軒を連ねています。  聞こえるのは、風に揺られる木々の音と鳥の声だけ。  周りには、桔梗の花が咲いていました。桔梗は細川ガラシャの生家である明智家の家紋です。
 この地は、細川ガラシャが幽閉された際に、侍女とともに過ごした邸宅があった通称女山。谷を隔てた向かいの山に、家来が住んでいた男山(現在の集落のあるあたり)と言われています。  家村耕の小説『光秀奔る』では、次女達の住まう家が雪で埋まり、春になるまで外に出る事ができなかったというエピソードも描かれています。フィクションなのでどこまで本当かは分かりませんが、それほどたくさんの雪が降る場所だったという事でしょう。
 ついでに少し足を伸ばし、味土野大滝へ。  落差約20mの壮大な滝ですが、谷底まで降りるには、道が整備されていないので少し危険です。

大宮賣神社(オオミヤメジンジャ)

縁結び・安産・子孫繁栄・文化発展の守護神

大宮賣神社(オオミヤメジンジャ)

あまのうづめの神・みやびの神で、御神像は女神座像(平安時代の木彫)です。
境内全域が京都府古代祭祀史跡に指定されています。

所在地 京丹後市大宮町周枳1020
問い合わせ先 0772-64-2454
アクセス KTR大宮駅⇒車で約10分 地図

2010 年 7 月 13 日

カテゴリー:史跡 寺社仏閣 風水パワースポット

小町公園

小町公園

小町公園

京丹後市大宮町にある「小町公園」は、絶世の美女といわれた、平安時代初期の女流歌人、小野小町ゆかりの地に立ち、展示室やイベント広場などがあります。小野小町は京丹後七姫にも数えられています。 http://www.h4.dion.ne.jp/~yama44/kanko/komachi.htm

2009 年 11 月 1 日

カテゴリー:公園 史跡 大宮町 資料館等

古代丹後王国

古墳時代になると、丹後半島には数多くの古墳がつくられるようになる。中でも、4世紀末ごろ築かれたと推定される日本海側最大の 2つの前方後円墳、網野銚子山古墳(網野町)と神明山古墳(丹後町)は、相当大きな勢力をもっていた一群が当時この地方に存在し ていたことを証明しているし、蛭子山古墳・作山古墳が所在する加悦町には、総数644もの古墳がひしめいている(加悦町教育委員会)。丹後はまさに古墳の宝庫と言ってよく、丹後半島全体の古墳の数は約6000基である。その上位3つは、・網野町の銚子山古墳(全長198mの前方後円墳)-日本海沿岸部で最大の古墳・丹後町の神明山古墳(全長190mの前方後円墳)-丹後町古代の里資料館の側・加悦町の蛭子山古墳(全長145mの前方後円墳)-加悦町古墳公園内であるが、他にも著名な古墳として黒部銚子山など大型の前方後円墳がある。丹後の遺跡の多くが、竹野川に沿っている。この川は、1927年の大地震を起こした郷村断層に沿って流れ、大宮町と峰山町の間で断層を離れて丹後町へ向かう。

弥栄町と峰山町との境にある太田南古墳群の一つである「5号墳」からは、「青龍三年銘方格規矩四神鏡」が出土している。青龍三年は魏の年号で、卑弥呼が魏に使いを送った景初三年(238)の三年前にあたる。この年号の鏡は、あと大阪府高槻市の安満宮山古墳から1面が出土しているだけで、年代的に、卑弥呼の使いが魏から貰ってきた銅鏡100枚の内の1枚ではないかと騒がれた。今年(2002)6月になって、東京国立博物館の鑑定により、個人蔵の鏡に同年号のあることが確認され、全国で青龍三年銘の鏡は3面となった。

鉄とガラス。この2つの出土物は、丹後地域の古代遺跡を語るとき、今や不可欠の要素である。1990年代以降の発掘調査の結果から、丹後地域は弥生中期後葉から後期(前1世紀~後2世紀)にかけて、日本列島のなかでもこれら大陸の先進素材を北九州と並んで、最も早く、最も多く集積した地域であることが明らかになった。弥生時代に製鉄が行われていたかどうかについては議論の分かれる所であるが、弥生時代を通じて行われた「鉄」の生産は古墳時代になっても続けられている。

奈良時代に隆盛を見た、最古の製鉄コンビナート遺跡である弥栄町の遠所遺跡(5世紀後半~6世紀後半と8世紀後半の一大製鉄遺跡が出土した。)。最古の玉造り工房跡である同じく弥栄町の奈具岡遺跡や、久美浜町の湯舟坂2号墳から出土した、明らかに権力者が所有していたと考えられる黄金の環頭大刀(重要文化財。6世紀後半~7世紀前半)など、古代丹後地方が大きな勢力をもっていたことを物語る遺物が数多く発見されている。

これらの事実から、最近いわゆる「古代丹後王国」の存在についての議論が盛んである。大陸や半島、北九州や他の日本海地域との交流などを窺わせる豊富な副葬品や、鉄とガラスの他地域に先駆けての先進性などを考えると確かに「王国」の存在を窺わせるに足る十分な条件を備えているように思える、しかし、私がその存在を強く予感するのは「墓制」の違いである。日本海側に、「四隅突出型墳墓」と言われる特殊な形をした墳墓が多いのは、歴史に詳しい方々なら既にご存知だろうと思う。主に日本海側に限って、広島県、鳥取県、京都府、福井県、石川県、そして富山・新潟県にまで分布する、四角形に盛り土した墳墓の四隅だけが長く伸びて、突出している墳墓の事である。この形式の墳墓がなぜ日本海側だけに存在しているのかについてはまた別の議論があるが、問題はこの形式が丹後地方には全く見られない事である。紀元前後、墳丘斜面を石で飾った丹後特有の方形貼石墓が出現するのだ。他の日本海側と同じく、渡来系の人々が日本海側に多く住み着いたのは容易に想像できるが、この丹後地方に上陸した人々は、四隅突出型墳墓を築く習慣を持たない集団だったと考えられる。そして「鉄やガラス」の製造技術に長けた集団だったのではないだろうか。門外不出のこれらの技術で製造した鉄製品、ガラス製品を主な交易品として、広く日本海側や畿内地方にその覇を広げていったと考えられる。

2008 年 7 月 13 日

カテゴリー:史跡 歴史情報

神明山古墳

神明山古墳  古墳時代前期後半(4世紀後半)の前方後円墳で墳丘長190メートル。丹後半島を貫く竹野川の河口付近に位置する、網野銚子山古墳に次いで日本海側最大級の丹後三代古墳です。葺き石と丹後型円筒埴輪列をもつ三段築成。丹後一帯を支配した豪族の墓と推測されています京都府京丹後市にある前方後円墳。出土品は、近隣にある「古代の里資料館」に展示されている。かつて古墳の北西にあった潟湖・竹野湖のほとりにあり、砂丘で海と隔たっていることが指摘されていました。船と船を漕ぐ人物の埴輪が出土しており、古代の海岸線と平行に築造されていて、葺石を貼っているから海上から眺めると白色に輝いてよく目立ち、港の位置を示す標識にもなっていました。同様に4世紀の後半以降、港との関係で大規模な前方後円墳が現れ、上総、尾張、丹後、伯耆などでは、その地域最大の古墳も港との関係で出現したといわれています。このようなことから、丹後王国(丹後政権)論が提出されています。 神明山古墳へアクセスする近道が、竹野神社の脇から続いている。丘陵の縁に作られた階段を登り、進路表示に従って民家の間を抜けてゆくと、竹野神社から250mほどで史跡明神山の前方部に着く。後円頂部は殆ど平坦で、その直径は約40歩ほどある。明治26年頃、一度上部を開墾して桑畑にしようとした際、封土が削り取られたとのことだ。その中央に、史跡を示す碑が建っている。

2008 年 7 月 13 日

カテゴリー:丹後町 史跡

網野銚子山古墳

網野銚子山古墳 京丹後市網野町網野には、丹後町の神明山古墳(全長190m)と加悦町の蛭子山(えびすやま)古墳(全長1145m)とともに丹後地方の三大前方後円墳の一つとされている銚子山古墳である。古墳時代前期後半(5世紀初め)に築造された古墳で、全長198mの規模は、日本海沿岸部では最大の規模を誇る。隣りの弥栄町にも黒部銚子山古墳(全長 100m) という古墳があり、これと区別するために網野銚子山古墳と呼ばれることが多い。この古墳は、崇神天皇の時代、四道将軍の一人としてこの地に遣わされた丹波道主命の墓ともいわれている。しかし、丹波道主命の墓は、弥栄町の黒部銚子山古墳にも伝承が残っている。全長は上記のように198m、後円部は径が115m、高さが16m、前方部は幅80m、高さ12mの前方後円墳である。墳丘は三段に築成され、それぞれの斜面には葺石が敷かれ、各段のテラスには丹後地方特有の円筒埴輪の列が巡らされていた。墳丘に築かれている内部主体はまだ調査されていないが、おそらく竪穴式石室だろうと推定されている。築造 時期は、古墳時代前期末~中期初頭(4世紀末~5世紀初)と推定されている。この古墳は、前と後ろに小銚子古墳と寛平法王陵古墳の2基の陪塚(いずれも国の指定史跡)を従え、悠然と網野町の市街地と丹後半島の浅茂川潟を見下す丘陵の上に位置している。

2008 年 7 月 13 日

カテゴリー:史跡 網野町

赤坂今井墳墓

赤坂今井墳墓 (あかさかいまいふんぼ) 赤坂今井墳墓は、京都府の北部、丹後半島の中央部に所在する弥生時代終末期前後の巨大な墳墓である。この墓は丹後半島最大の平野部である中郡盆地から日本海へ抜ける、狭隘な谷筋に面した標高55mの丘陵先端部に立地する。日本海までは5km程度のところで、交通の要衝に位置している。  平成10・11年、府道建設に伴い事前の発掘調査を実施したところ、弥生時代の大規模な墳墓が遺存していることを確認したため、路線を変更して現地保存が図られた。これを受けて峰山町(現京丹後市)教育委員会では、平成12年度より、遺跡の規模等を把握するための発掘調査を実施した。  その結果、墳丘は墳頂部で東西36m、南北39m、その裾には平坦面を造成し、墓域としては南北51m、東西45m、高さ3.5mという弥生時代終末期前後としては傑出した規模であることが判明した。また、墳丘西側の平坦面では埋葬施設を確認し、さらにその西側の丘陵斜面部分は大きく削平され、その際に出た土砂は、墳丘や周辺の平坦面の造成に費やされたと考えられている。  埋葬施設は墳頂部に6基、墳裾の平坦面に19基以上存在する。墳頂部の中心主体である第一主体は長辺14m、短辺10.5mと他に例をみない大規模な墓坑をもつ。その上面西側で検出された南北に並ぶ柱穴列は、埋葬儀礼に伴う施設と考えられる。墓坑上面からは円礫と破砕された土器が出土した。これらは埋葬後に捲かれたものとみなされ、土器は庄内式の古段階に併行する時期の特徴を有している。木棺は底面が窪む舟底状である。  第一主体を切り込んで作られた第四主体の墓坑は長辺7m、短辺4.2mで、その上層では、第一主体部と同様に円礫と破砕された土器が出土した。土器は第一主体部と同じ時期のものである。棺内から鉄剣1点、ヤリガンナ1点及び頭飾り・耳飾り一式を検出した。頭飾りは着装された状態で、ガラスと碧玉製で三連に連なっており、布などに編み込んでいたと考えられている。ガラス管玉には、古代中国の顔料で「漢青」の主成分として使用されたケイ酸銅バリウムが含まれていた。  このほか、墳丘裾部には大小の木棺墓・土坑墓・土器棺墓を確認している。  赤坂今井墳墓は弥生時代終末期前後、すなわち3世紀前半頃に築造された巨大な墳墓である。その築造には大規模な土木工事が行われ、埋葬施設における副葬品のあり方も明らかとなった。弥生時代後期後半以降、列島の各地域では巨大な首長墓が築造されるようになるが、この墳墓は近畿北部の首長とそれに関係する人々の墓と考えられる。また、副葬品からは大陸との交流があったこと、墓坑上でみつかった遺構・遺物は当時の葬送儀礼のあり方を知ることができるなど、この地域における弥生時代終末期前後の政治状況や社会のあり方を知る上で極めて重要である。よって史跡に指定し、保護を図ろうとするものである。

2008 年 7 月 13 日

カテゴリー:史跡 峰山町